『明日に向かって走れ!』

サブタイトル 「こんな青春もあった」 は、宝田久人の1971年10月から1974年12月までの3年余りの地球一回りの旅のエピソードをまとめた文です。

今から45年前の24才~27才の青年が、3年の間、歩いて見、体感したありのままの世界を「風の旅」として語ろうと思い続けていたものの、結局、未完の紀行文となりました。多感な青年期の3年はあまりにエピソードにあふれていたのでしょう。想い返してはしばしば筆が追いつかず、また、「日常即写心」で日々の撮影に時間をとられ、人一倍記憶力の優れていたこともあり、いつか、いつかと先延ばしにしているうちに、宿題をそのまま彼岸まで持って行くことになってしまいました。

ごくごく一分ですが、残された黄変した原稿用紙やメモ、7冊の旅日記から、45年前の等身大の青春を追体験したいと思います。

宝田久人は[誤字・脱字王]である上、印象からの造語も多く、記憶違いや思い違いもあるでしょうし、旅の合間の走り書きの旧いメモで判読しにくい箇所も多く、加えて本人に確認するすべがないので特に地名などの読み違えや誤りも多いかと思いますが、ご容赦いただき、誤りはお教えください。

(文は原文のまま /  文責・正法地美子)

 

『明日に向かって走れ!』 宝田久人

プロローグ

写真の学校をなんとなく(そう、なんとなく)卒業した後、知人の奨めもあって、某有名カメラマンのアシスタントとして、六本木にあるスタジオに約四ヶ月ほど通っていた。

学校などというものは、かなりいいかげんなもので、そこで習ったものなどプロの世界では全然通用しない。そんな訳で使い走りばかりをやらされていながらも先生の撮影を盗み見していました。

私のいたスタジオは先生と三人のアシスタント、秘書の女性が一人、そして四人目の小僧として私が入り、計五人で形成されていた。厳しいながらも楽しい時期を過ごしました。当時その世界でも一番忙しい所だったと覚えています。

自分でも楽しいと思いながらも、初めから数ヶ月で辞める予定だったので、先輩達に言われる事々を何でも聞いていたので、人に「君はイエスマンみたいだ」などと非難されたこともありましたが、前記の理由で早いこと辞めることにしていたので、此処はガマンのしどころと思って堪えていました。ちょっと陰険ですね。

四ヶ月たち、辞めようと思ったのですが、良い先生、良い先輩達で楽しくもあったので、口実が無く、苦肉の策としてオフクロに病気になってもらったりしました。勿論すぐに治る病でしたがね。

自分勝手な理由でスタジオを出てから、写真の仕事を探したが、肝心のデザイン関係の知人もなく一年以上も仕事も金もなく女もない孤独な心を引きずって街を歩いていました。

こんな時の寂しさというのは格別で、街には人が沢山歩いて、多くの人は会社に、各々の仕事に行き、夕方ともなれば暖かい家路に着く人や、恋人と会うらしき若者達が忙しそうに歩いている。

写真の事しか頭に無かった私は、女友達をつくる金も惜しんでフィルムを買っていた。

デビュー作品を中央公論で発表するまで、家族は自分の写真を理解してくれず、終いには兄貴とも言い合いになる次第で、私としては八方塞がりで、朝早く家を出て、夜遅くまで歩き回っていました。

そんな状態が続き、万事休止となり、会社勤めでもしようと思っていた矢先、初めての作品が世に出ました。

「逃亡者の眼」という題のもので、法律が法律の為にあるという矛盾をあつかったものでしたが、これは普通の雑誌のグラビアとしてめずらしく大変話題となり、色々なものに取り上げられ、自分の写真に対する評論に逆に啓蒙されるというお可笑しなことになってしまいました。

それから、一個の小さな自分でも社会に対してなにか挑戦できるのではないかと思いこんで、ハッスルしてカメラを肩に二年間日本中を(といっても海の回りですが)歩き回りました。

そして昭和46年(1971)できたのが「止まらない汽車」です。

この時期は、日本の経済も高度経済成長の掛け声と共に最高に調子良く、文化も最近のピークだったようです。あらゆるジャンルの運動が活発に動き、写真もその一翼をにない、多くのコンテンポラリー的な個人写真集が出版されました。

駆け出しだった私も人におだてられ、おだてられるとやってしまう単細胞の私は、日本国内を歩いてきた成果を発表したのです。

当時、数人の写真集が出たのですが、私の本については賛否両論、いずれにしろ話題にはなったようです。